亡父の生地、鳥取の渓で出逢った山女魚、その渓は人の心の無情さに無念の涙を浄った渓でもあった。
一瞬ギラリと光った山女魚の斑紋パーマークは、生前僧侶であった父が、掌にしていた数珠の光沢に匹敵する程でもあった。そのパーマークに見せられて渓に疾った休日は数知れない。
関東は幾多の渓を探索し、釣行を重ねては見たものの、陰険なる山女魚は渓流歴の全く無い男に、たやすく釣れる相手では無かった…。
二年目の解禁の春、辛うじて6寸級の養殖山女魚を捕捉した喜びは、全身に戦慄が疾る思いであった。
男はザイルを命綱とし、ハーネスや8(エイト)環に躯を委ね、次第に深谿へと潜入する。毛虫を跳ねのけ、蛇を蹴飛ばし、虻に追われながらも、山女魚の魔力は未踏地の探索心を煽った。
日常窮境に陥る時、静寂なる谿の源流に、救いを求めるように入渓した。ここ数日来、心に引っ掛かっているものが何であるかは解っていたが、それを振り払うべく東京を後にした。男は山梨県大幡川の源流三つの峠山の渓に降り立った。その年もまだ暦の上では春とは言え、彼岸を過ぎたばかりの未明の渓は、足下から冷気が漂う厳寒である。
入渓は先着順上下流2Kmの権利が原則である。釣場の選定はその日の釣果を左右する。夜明けにはまだ間があるが、男は幾度となく釣行を重ねるうちに、闇には闇の明るさがあることを識っていた。
東の空から白々と夜が明けかけた頃、川の流れに陽炎のように高く立ち篭める朝霧に、遠く40年を遡る朝が重なった。4人の幼子等と、父の眠りを覚まさぬ気遣いをしながらも、行商の支度をしていた母を男は幼い目で確と見ていた。
その当時の親の年齢をはるかに超えても、自分の及ばない畏怖を感じる程、雛を護るが為の必死な姿が目に灼きついて離れない。
この彼岸に久方振りに逢った母の、未だ現役の商売も順調であるらしいが、子だけに解る老いをひしひしと感じていた。この母の生在るうち、あと何回の逢瀬があるだろうかと、互いに仕事に忙殺される母子故、席を同じくせねばならぬ行事しか相見えぬことに思いを馳せた。
さほど川幅のある渓ではなく、対岸には冬から脱皮しかけた木々が小枝を伸ばし、鬱蒼と川岸を被っている。それらに仕掛けを捕られぬよう、細心の注意を払いながら愛竿「琥珀」を振り込んだ。流れを疾る目印は朝陽を受けてキラキラ光る。それを追う男の目に幼い日、寡黙な父と堤防に肩を並べた腕白坊主の竿を出している姿が、パントマイムのように水面を浮上する。
僅か六歳の春僧侶になるべく寺に預けられた父、それは育ての母に恩を返せぬままの終生の別れでもあった。
その後、想像を絶する厳しい修行に修行を重ね、僧として微動だにもしない地位に上りつめ、八百屋お七で名を挙げた本郷の吉祥寺に住職の座を得た時、「人間本来無一物」の境地に達し、その生き態を全うすべく僧侶としての法衣を捨てた。
世事に疎いそんな父であったが故、母の細腕は糊口を凌ぐ為とはいえ、計り知れない辛酸を舐めつくし、数年は貧窮の一語に尽きる状態であった。この時期に働いている母に代わって子等の傍らにいた父は生活の中で、善には悪、原因には結果、自由には規律等、現象には必ず比喩が在り、それをどう判断し決断をしていくかに人の生き方が決まるのだと、岩に水が滲み込むように訓えこんでいった。人生の土壌ともなった少年期である。
数年後、追い打ちをかけるように母の商売が躓いた。大晦日の前日債権者が押し掛け、家財道具は疎か寝具に至る迄略奪された。乾燥芋を収容するカマス(筵で加工した袋)を寝袋代わりにし、数日の飢えと寒さを凌いだ。男が小学校も低学年時のことであり、世の中もまだ戦後の混乱期から脱し切れない時代でもあった。
親の言語に絶する踏ん張りと忍耐は、この凄惨な状態を徐々にではあるが乗り切っていった。後年この両親からの影響は、男の人生を左右する程の性格形成の基礎ともなった。想像を超える修行を耐え抜いた父の厳を貫く精神力と、いかなる難事にも堪え忍んだ母の忍耐力を遺伝子として、燃えるような熱い血が男の胎内を奔流の如く流れている。
腐っても鯛とは程遠い育ちではあるが、反面、男は泥水飲んでも鯉の生き様に徹底した。様々な葛藤を繰り返した日々が、走馬燈のように脳裏を駆け巡る。明け始めた朝の冷気はそんな男を現実に戻した。
音のない静けさの中にも、それなりのリズミカルな音があり、そのリズムに違和感を持った時、上流の岩間に人影が疾った。その瞬間に魚信がきた。緊張が全身を貫いた時、人影が男を目掛け疾走した「くッ…熊だ!」絞り出すような声で突然の侵入者は叫んだ。仰天した男は後ろの木々の異様な音を耳にすると、釣具を抛りだし侵入者の後を脱兎の如く追いかけた。
さまざまな大小の岩や石を飛び、果ては雑草に被われた泥水の溜まりに足を捕られ、七転八起さながら風下に向かっての逃避行であった。男と侵入者は後先の疾走を繰り返す中、身が隠れるような岩陰に雪崩れ込むと、目と目で無言の合図をし、斜め前方の林道に抜けられる山道を突進した。
木の枝や背高い雑草を掻き分けながら無我夢中で這い上がる。男も侵入者も後方を振り返る勇気も余裕もない。頭上僅かな処に林道が現れた。躍りでるように飛び出した男は、矢次早に左右をみる。「こっちだー!」男は侵入者の腕を掴み縺れるように車に疾り込む。
目前に迫る月の輪熊を「えい!」これ迄と、エンジン音もけたたましく、引き殺さんばかりに発進した。僅かな差で熊を避け、ガードレールも無い断崖を危うく交わし命からがら脱出した。
頭の中に全く何も占めることの無い空白の時が、曾てあっただろうかと後になって思う程、唯一走ることしか浮かばなかった。恐ろしい客同伴で出現した侵入者は、後日男に陸奥の渓流に目を向けさせる因をくれた。
その男は岩手県気仙川の元職漁師であった。バイオテクノロジーの養殖技術は、渓魚の価値を一変させ、一昔前まではかなりいた職漁師迄も追い払うに至った。
「この項・完」
宮城弌寶