吸い込まれるように消え往く波紋は、生死の境を彷徨った亡父が「これからは生きていく者を優先しろ」との謎めいた一言を、遺言とした後の一呼吸に似たものであった。
後に、この一言が菩堤寺との戒名紛争で坊塔を締める一大決心の決め手になろうとは、知る由もなかった。
気を取り戻し再投する。型の大小は異あれ入れ喰い状態が続く。数を数えることが不気味な程であり、この渓の全てのイワナを釣り尽くす。そんな思いに駆られながらも、アタリの魔力に止めることが出来ない。
やがて堰堤の釜面に陽光が射し出すと、次第にアタリが遠のいて去った。雪洪が入り始める正午頃から水温が下がり始め濁りが加わると、まるで先程迄のことが夢でもあったかのようにピタリと喰いが止まった。この摩訶不思議な現象には度々遭遇するが、この時ほど安堵したことはなかった。
焚き木を拾い集め遅い朝食の支度に取りかかる。ワンカップを飲み干しながら、イワナの塩焼きに噛ぶり付く。舌鼓を打つこの味は、近年味わったことの無い遠い日の懐かしい素朴な味であった。往時に思いを馳せるように瞼を閉じると、幼少の頃母の実家の海岸でバケツ一杯の子鯔を釣り、軒先に放置した儘遊びに耽り亡父にこっぴどく叱られた。
「人間生きる為の殺生はしかたが無いが、食べない魚の殺生はするな、釣った魚は必ず食べるか生あるうちに放してやれ」そう言いながら切れない包丁で調理してくれた、あの時の揚げたての天麩羅の味でもあった。
思い出したように、はち切れんばかりの魚籠から、七寸未満をリリースしようと起ち上がった。酔いが手伝ったかふらついた足許は、愛竿「琥珀」に体重を掛けた。「ボキッ」と鈍い音を発しながら元上が折れた。「しまったッ」と慌てて竿を手にするが、酔いの廻った頭は、予備竿「華厳」があるからといとも簡単に諦めた。
大半を放流した後に、毛虫が葉先で丸まったような奇妙な雑草の密集地に、身の丈程のビニールシートを敷き、寝転びながらハーモニカを吹いているうちに、いつの間にか寝入ってしまった。
「…ああ人生は夢の夢、幾年変わらぬ山川の、流れる雲が風に散る、人の心は山蕗の、花はほろほろ散るばかり…」
後に、この奇妙な雑草群は山菜の中でも一際珍重される、コゴミの宝庫であったことを知った。
風に舞う滝飛沫に顔を洗われ、絶好の夕まずめに目が覚める。水位は一段と高く、雪洪を含んだ青白い流水が、勢いよく岩を噛んで白泡を立てている。
白濁した雪洪は点在する大岩までも水底に隠す。釜面に映える残照が金色の光をはじき眩しい程に目に滲みる。爽やかな川風は寝不足の朦朧とした気分を忽ち洗い流してゆく。
予備竿「華厳」を取り出し、就餌点と思える僅かな垂水を判別し再投する。一瞬にして目印は流され浮き上った餌は水面を叩く。流速をオモリで調整敵水性を見極める。瞬時の変化も見逃さぬ目印を追う眼と、目印に集中する全神経は、オモリが石に接触する僅かなアタリも捕らえる。イワナの「それだッ」と合わせれば石であり、石だと思えばイワナのアタリで餌が無い。
落ちゆく陽に慣らされた手元迄、どっぷりと夕闇に包まれ目印の判別も利かなくなった。体勢を崩すのが億劫でも在ったが、頭上にカンテラを被り目印をケミ蛍に取り替える。ボーッと青白い光芒を発しながら水上を漂うケミ蛍の灯火は、まるで小雨に咽ぶ土壌が放つ燐火のように、その薄気味悪さは闇の幽谷の渓に起つ男の恐怖心を煽るのには充分であった。
単独釣行を原則とする山釣りは、現地で人との出会いを極度に嫌う。孤独をものともせぬ精神力は源流釣り迄も駆り立てたが、最早竿を振る勇気も気力も失せた。焚き木に火を灯し、カップヌードルを啜りながら粗末な夕食を了える。ふと背後に異様な気配を感じ、戦慄とも恐怖とも知れぬものが疾り、束の間空白になった頭は息を殺し宙を泳いだ。金縛りのような現象からふと我に返ると、リュックを足で引き寄せ、爆竹を鷲掴みにし点火せんばかりに背後を振り向いた。闇の間を射る双眸は男が最も恐れていた奴ではなかった。双眸の高さからして狸か狐の類であろうが、その青白い獣の眼に男は直と吸い寄せられた。この獣の眼こそまさしく男を虜にした渓魚のそれであった…。
岩魚…山女魚…鮎…魚でありながら魚の眼を持たず、獰猛な獣の眼光で下界から身を護らんとする眼は、まるで鷲か鷹が獲物を狙う眼そのものである。男は何故にあの薄気味悪い程鋭く、感性を読むことの出来ないような鋭眼だけを追うのであろうか…。人に心を読ませぬ思いに支配されるのか…。男は自分が安らぎとして需めていたものが、実は挑戦の対象を追い求めていたのかと愕然とした。思えば社会に出てからは、人に為せる事象に限界は無いとの信念を貫きとおしたと確信できるが…、それを由として疾っ走ってきた俺の眼は一対どんな眼をしているのであろうか…。自潮とも反芻とも就かぬ思いで、ワンカップを数本煽るように飲み干し、逃れるように車中に転げ込んだ。
深山幽谷に夜が明ける。夜霧を含んだ山菜にジーパンの裾を濡らしながら、滑るように降りてゆく。水位は下がり濁りのとれた釜面に、房掛けのイクラを投入する。滝飛沫に舞う目印が朝霧に煙り着水点も定かではない。「ガガッ」いきなり水中から強烈な躍動に合わせる術を失い一瞬たじろぐ。
狂ったような尺上イワナの入れ喰いに、足下の魚籠は忽ち一杯になる。清冽な流れに育まれた美しい魚体に腐らせぬ為とは言え、ナイフを入れるのを戸惑いながら腹を割いて愕然とする。
蛇は疎か鼠の類に至る迄、喰らえるものは何でも喰らう獰猛なイワナは、餌一つ無い豪雪な渓で共食いをしてまでも生きてきた。やっと餌にあり付ける春…、清水魚棲まずは世の喩え、飲み水の困らぬ源流域に、幻のイワナを求めて800キロ、己が生涯を掛けて追い求める男のロマンとは、余りにもかけ離れた凄まじく儚いものであった。
所詮俺のやっていることはこの程度のことなのか…。それはまるで男自身の過去を釣り上げているかの如くであった。如何ともし難いやり切れ無さと挫折感は、男自身も予期せぬ突然の衝動であった。激情を抑えようと眼を閉じ、両手で顔を覆い息を殺した。激しい一瞬が引くとやにわにイワナを水中に放り投げ、リュックからありったけの餌を取りだし釜面に投げ込んだ。
今、飽食の世に生きる身は、共食いをしてまでも飢えとの闘いをせねば生きられぬのを視ての咄嗟の行動であった。
振り返れば幼い日、疎開先の小さな貧しい漁村育ちが釣り竿を手にする切っ掛けとなったのか、性分的にあっているのか解らぬが、随分と長い年月竿を通し魚と共に生きてきた。人間が勝手に品定めをして雑魚(ザッコ)にしたり、香魚(鮎)にしたり、幻の魚にしたりして、人間本来の素朴さや、釣りそのものの愉しさが、自然と共に消えてゆく。
今は見向きもしない雑魚らを、バケツ一杯も釣り意気揚々と、家路を急いだ腕白坊主のあの頃は、雑魚等の呼び名も知らず、宝物と戯れるようにしながらも、バケツごと放りっぱなしにして亡父から、魚も生在るものとして視ることを諭されたあの幼い日…。
今、男は高価な竿と、途轍もない時間と費用を労しながらも、あの雑魚を釣ることにときめいた素朴さを失いながら、再びそれを懐かしむ生き態に、「俺も歳を重ねてしまったか…。」そんな思いで帰京の身支度を急ぐ男の貌を、朝の陽ざしが眩しい程に射し始めた。
「この項・完」
宮城弌寶